こみ上げる哀しい気持ちと背筋の寒気を、黄緑色になってきた田んぼの稲の絨毯に投げてしまいたくなります。
沸き上がる自分に対しての怒りは、見上げても見上げてもまだ続くコンクリートとガラスのビルにぶつけます。
たとえようのない、言葉にできない刹那さは、めっきり短くなってきた夕日の間に、わざと大きくします。
ただ前へ、何に向かうのか、何がしたいのか知っていようが、わからないとしても。
歩くというのは単純で、一歩進めば前に進みます。
実際にいつの日かのゴールから逆に数えてみると、確実に近くになります。
「前に進んでいるぞ」と
「いくつも壁は乗り越える、まだまだ越えるんだ」と
「旅なんて、ずっとずっとはるかに前からはじめていた」と
「おい、見てるか?やっているんだぞ」と
「忙しいか?大変か?メシは別か?楽しくなければだめなのか?納得できなければ意味が薄いか?」と
「誰か気付いているか」と
「それでも触れないでいてくれ」と
「想い描くことに理由が必要なのか?」と
「何かのためにならなければもったいないのか?」と
「前向きに考えたり、反面教師といって、目の前の手に届く問題から上手にズルく目をそらしてないか?」と
「本当にわかっているのか?」と
「楽しくなければ、本当に意味はないのか?楽しめなければもったいないのか?」と
「楽しみ方はそれぞれと、放棄するようにいうのか」と
「それでいいのか?」と
「それでいいのか?」
「これでいいのか?」
友人の亡くなったこの季節になると、一年の自分にぶつけます。
去年のいま頃と、さほど変わらない質問をします。
お盆時期という季節柄、古くからの友人や日々支え合う友人たちとの連絡が続きます。
しかし、誰一人として歩きのことなんて聞いてもくれません。
「終わったらなにするの?」
歩くのだって意外と大変なんだけど…
苦笑いのなか、39℃をこえ、常に湯船にいるような気温のなか、そんなことも忘れて自分にぶつける短い季節がやってきました。